スポンサーサイト
一定期間更新がないため広告を表示しています
- 2024.01.15 Monday
- -
- -
- -
- -
- -
- by スポンサードリンク
先日くつ下を買った。
届いた箱を開けてるとくつ下たちが
それは大事におつつみされていて
納品書にはおつつみしてくれた担当の方からの手書きのメッセージとイラストが添えられていて、
こんなに読むのがうれしい納品書ってあるかい?!とうれしくなった。
そして、箱のいちばん上には写真のローズマリーが添えられていて
ふわっといい香りが箱を開けた時から届いてきた。
ゆかりちゃんにロミロミしてもらった。
「わたし先月来たっけ?
一年くらい来てないんちゃう?ってくらい記憶が飛んでるねん」
毎度のようにおかしなことを言う
わたしの背中やら手や脚や、
顔に頭にとゆるめてくれた。
終わって一言目はいつものように
「生き返ったわ〜」
今月も生き返えれてよかった!
たぶん背中はウミガメさんの甲羅並みに硬かったと思う。
ゆかりちゃんの指が折れなくてよかった。ほっ。
ロミロミしてもらいながら、
「こんなに全身ゆるめてくれるの、
ありがたすぎへん?
カチコチの我らをゆるめて楽にしてくれるんやで。
ほんまにええ仕事してるなぁ」
と何者目線かわからないけど、
ゆかりちゃんの仕事っぷりに
ほぼ寝てる頭で「ありがてぇありがてぇ」と思っていた。
こういうお仕事の姿にに触れると
「こういう仕事のあり方で仕事したい」と思うのよ。
きのうまで、求人情報のぞいたりして
「もうわたしあかん」の大波に飲み込まれていたんだけど、
どんな仕事するにしてもわたしの根底に大事にしたいことをひとつずつひとつずつ指差し確認していこうと思う。
正解もなく、ひとりひとりにとっての状況や答えみたいなものが違うであろうことなので、
わたし自身の思いや体験をどう書けばよいものかと、ずっと書きそびれていたので、
思いつくままに誰かに話すように書いてみようと思う。
家族を自宅や近くで介護や看病する人、遠距離で頻繁には会えないけど介護や看病が必要な家族がいる人、
家族の方に、心身のケアや、ほんの少しでも自分でできるケアできることがあると実感できる機会が必要だと
ずっと思っていた。まだ形にはできていないけど、何かできないかなとずっと考えていた。
わたしは数年前に母が要介護となり、4年前に他界した。
実家から車で1時間ちょっとくらい離れているのと、仕事もしていたので
いわゆる遠距離介護というのにあたる。
もちろん公的な介護サービスを母は受けていたので、ケアマネージャーさんやヘルパーさん、介護施設の方には
本当にお世話になった。この方々がいなかったらどうなっていたことか。
今から思い返せば、その予兆はあったのだと思うけど、
なんとなくそれを気づかないようにしていたのだと思うし、両親も認めたくなかったのもあるだろうしで、
介護が必要になる日は予告なくやってきた。
そこからは怒涛のように手続きに走り回り、やること考えること山盛りとなり、
心身ともによろよろに疲弊する日々のはじまり。
両親ができるかぎり大きな変化がなく、サポートを受けながら暮らしていけるために、
わたしの心身を削る日々となる。自分の家の片づけをする時間も心余裕もなくて、家がえらいことに!(笑)
ここからの数年間、現在もだけど、
やるせなさ、かなしさ、さみしさ、イライラ、怒り、罪悪感、絶望、希望、
人間ってこんなに感情あるんやというくらい、ありとあらゆる感情があふれてきた。
これが本当にしんどかった。
母が自分のことをできなくなったことへのかなしさと、腹立たしさが怒りになって、
母にきつい言葉をぶつけることもあったし(近い関係だと余計に歯止めがきかない)、
そんなやさしくない自分にも腹が立つし、落ち込む。
怒っていると辛いものを食べたくなるので、「おっこれはまさにピッタ(火)の要素があがっている」
と自己分析も忘れない(笑)
仕事もできなくなるんじゃないかという不安と、
朝起きたときに「あぁ今までのようにはいかないんだな」と思う朝イチの絶望と、
ずっとお腹のなかに心配と不安と絶望のかたまりを持って生きているような感じが
まだ残っている。
そして母と父がどうにかすこやかに楽に暮らしていけるようにできることはやりたいという思いもあり、
自分の中の感情が忙しい忙しい。
楽しい予定に行くことにもすごい罪悪感を持っていたし、極端なことだけど
楽しいな、うれしいなって思っちゃいけないくらいに思っていた。(今のわたしからそんなことないよって言ってあげたい)
そして親が介護が必要になる世代というのは、自分自身も更年期という世代に入っていたので、
今日元気だけど、明日はめまいがしてるかもしれない、どうかわからんという状況だったのだけど、
病院への付き添いや、手続きや、呼び出しなどで、自分自身の健康状態は誰も気にしてはくれない。
これもなかなかのしんどさだった。
わたしは子供がいないけど、同じ世代で親が介護が必要になってる方の中には、子供さんの学校や受験なども
重なっている方が多いのではないかなと思う。
そして、周りからの
「娘さんいてよかったね」(きっと「お嫁さんいてよかったね」バージョンもあるのでは)
「ひろみちゃん、頼んどくね」(年に1回も会わない親族より)
「仕方ないやん」
「わたしやったらそんなことできへんわ〜」(介護サービスを受けると話したときに)
という、「娘」という属性に対しての「こうあるべきだろう」という言葉に、モヤモヤしたものだ。
このモヤモヤはわたし自身の中にも、そうあるべきというものが潜んでいて、そうしていないことへの罪悪感も
あったのだと思う。
ありがたいことに、両親が今まで「娘だから、女だから」ということをわたしに一切言うことなく育ってきたので、
この年になって周囲からこんなに言われるとはな!とすごい反発心で確実に人相が悪くなってたと思う(笑)
「いろいろな感情や体験も学び」なんて言えるのは、ずっと後になってからのことで、
その渦中にいたら、この湧き上がる感情をどうしたらええんや!なのだ。
いろいろな感情や経験をしながら、それを俯瞰しながら「今わたしはどう感じているか」とみている自分もいて、
わたしこういうところあるよなとも思った。
介護の話や、家族に対しての感情の話は、あまり話されることがなかったし、
どちらかと言えば愛を持ってやさしくケアするものというテレビCMのようなイメージも勝手に持っていて、
どうしたらいいかなと、なかなか人には話せずに孤独になっていたときに、
ネットでたまたま見つけた遠距離介護をされている女性のブログで、
わたしと同じような葛藤や苛立ちが綴られていたことにとても救われたのを覚えている。
そして、母を担当してくれたケアマネージャーさんが
「仕事はやめたらダメ。あなたはこれからも生きていかないといけないんだから、自分の生活を守ってください。」
と何度も何度も言ってくれたことに助けられた。
そして、ヨガがセルフケアが役に立ちました☆(キラン☆)みたいなどこかの宣伝みたいな言い方はしないけど、
トイレやお風呂でハァァァァァァと息を吐きだすことで本当に気分がすっきりしたし、
ヨガをしているときは、いつも一緒になってた不安や心配ごとから意識を離して、自分に意識を戻すことができて
正気に戻れたし、
ヨガや瞑想や心のはなしやアーユルヴェーダや好きな世界に触れている時間があることに本当に助けられた。
自分のいろいろな感情を角度を変え、視点を変え、観察できていったのはいい体験だったと後になって思う。
SNSも、自分と外の世界を繋いで好きなものの世界に出かけられてる気分になって「ありがとうやで!」と思った。
そして何より、
「親の介護をしている人」
「誰かの娘さん」
とかいろいろな属性から離れた、わたし一個人で過ごせる場所と時間の存在が本当にありがたかった!
それもあって、わたし自身の感じたことや体験したことをきれいな言葉ではなくて
まさに思いつくまま書くことで、自分自身の整理にもなり、誰かのひと息になればと思っている。
楽していい、楽しいこともうれしいこともやっていい、
自分の人生を生きていい、
しんどいときは休んで、
離れる時間持って、
人の手をかりて、
自分のからだもこころもいたわっていいからね!
いろいろな感情にギューっとなっても、わたしもあなたも健やかさのひかりはいつも内側に
あるからね!
少し前にさんぱつに行って、前髪を短くしてもらい(その前までは人生最長くらいに伸びていた)、
ベレー帽を被ったような丸い髪型にしてもらったのがうれしくて、うれしさの記録としてノートに
「こんな感じ」というのを描いてみたのが上の写真です。
「もうちょっとうまく描けるかな?」と何とか描きなおしたものの
何回描いてもはじめに描いたの以上にうまくというか、しっくり描けたものは出なかった!
(そもそも絵心がないからうまく描けないのはとりあえず横に置いといて)
それは
「ちょっとうまく描いてやろう」とかいらぬ欲や力みが出たからだろうな。
とりあえず、「さんぱつしたのがうれしかったんやな」というのが伝わればいいな☆
さいきん思うんですけど、
しょっちゅう、「わたしは何もできてないなぁ」「人に何かを伝えられるようないいもの持ってないなぁ」
って思っているのですが、
「何かできなきゃ」と思っている時って、絵をうまく描こうとするのと同じでわたしにはいらぬ欲や力みが
でてきてしまう。
そのたびに、
おいおいわたしよ、ちょっと待て。
わたし自身はどうやって生きていきたいんだったけ?と問うたときに、
大げさかもしれないけど言葉や所作にやさしさと愛がある人でありたい、
買い物行ったときにお店の人に「ありがとう」と言える人でありたい、
野菜や季節の旬を楽しみに待っていたい、
ちくわの頭をやさしく撫でられる手を持つ人でありたい。
そして、「これ楽しいよね」「これいいよね〜」と誰かと分かち合えたら
なおうれしい。
それにはどんな仕事してるとかしてないとか、
SNSはどうとか、どんなすごい人かそうじゃないかとかは関係ないし、本質はそこじゃない。
ふむとうなづいて、そのためにできること、やることに心のフォーカスを変えるのです。
自分の体や心を大切に扱うことや、
ちくわと散歩することや、
お味噌汁作ることや、
お風呂に入ったり、早く寝たり、
ヨガをするのもその仲間☆
そして今日も明日も変わらず生きていくのです。
変わらずなんだけど、一日の中や季節の中で小さな変化を見つけてほくそ笑むのが楽しいのです。
先日、全然存じ上げない方のTwitterの投稿で
「えっ!わたしとおんなじこと思ってた人がいた」ということがあり、
その方が書いてくれたことで、わたしも癒されたというか、心がほどけたことがありました。
自分の思っていることって、案外自分だけじゃなくてほかにも同じことを思っている人がいるのですよね。
わたし自身の言葉で書いてみますね。
人に話したこともあるような気もする。
何が原因なのか、どうしてなのか、なんでそんな風に思うのかわからないけれど、
わたしは子供のころからずーっと大人になった今でも
関わる人全員、何なら世の中の人全員によく思われていない、なんなら嫌われているし、
わたし感じ悪いと、文字にするとこじらせた人みたいなことを思ってたりします。
たまに「世界中から嫌われている!いやいやそんなに世界に影響力あるかーい!」もやっています。
わたしが、この人好きで仲良くしてもらっている(もらっているという時点でどうなんや)と思っているけれど、
相手はそう思ってなくて、無理させてたり、わたしがつきまとっているだけなんじゃないだろうか。。。
そんなわけで、仲良くしてもらったり、やさしくしてもらったり、ほめてもらったりすると、
うれしいのと、ドキドキするのとが入り混じった感情がやってきます。笑(もう笑っておこう)
その割に、人と話したり、人と関わりたいと思っているので、
仲間に入りたいなぁ、お話してみたいなぁとか、遠くからみんなを見ているような感覚があったりします。
こう思ってしまうのって、
子供のころから今までに、何かしらいろいろあって心の深い領域のところが傷ついてることが
表に出てくる感情や行動に現れるんだよーと学んできた中で知りました。
うちの母はわたしが子供のころ、ちょっと調子が悪い時期があって、
その様子を見ていたわたしは無理言わないでおこう、怒られないようにしよう、
期待外れにならないようにしようと思っていたところがありました。
そのくせ反抗期には盛大に反抗したのですよ。どっちやねんとツッコミ入れずにはいられない。
それだけじゃなくて、ちゃんと愛情をもって接してくれたことも十分わかっています。
「自由に生きなさい」とずっと私に言い続けていた母の気持ちもちゃんと受け取っていました。
今、その時の母の年齢と同じから、それを超えた年齢になって
母もいろいろあったんよなぁ、わたしもまだ右往左往しながら生きてるのに、
完璧な人やったはずないわなと、
過去の母と肩を組みたい気分です。
そんなことやら、友達と喧嘩したり、人間関係に悩んだり、
いろいろ、ほんとにいろいろなことが少しずつ少しずつ積み重なって、
自分のことをぽつんと離れたところに置いてしまうようになったのかもしれないなぁと思います。
でもね、
そういう昔語り、自分語りをしたいわけではなくてですね。
そういうこともあったやろう。悲しかったり、傷ついたこともあったやろう。
と、とんとんした時から癒していくことができるのだと思うのですよ。
時間はかかるとかもしれません。
過去の体験を「こんなことあった!」と餅ができるくらいこね回さずに、
その体験をとんとんしながら、
今日、今、ここにいる自分に対してできることはあると思うのです。
たとえば、
自分の体を「まいにちありがとうやで。今日のおかげで大根切れたわ〜」と右手に声をかけ、
「今日も消化してくれてようがんばったなぁ」と胃腸にお礼を言い、
「今日も自転車でよう走ったなぁ」と足をいたわり、すりするさすってみる。
ぶわぁぁ〜っと過去のことを思い出して、心がぎゅーっとなったら、
「今、それは起きてないよ。だいじょうぶ。今は安心なところにいるよ」と思ってみる。
必要であれば、誰かに助けてと言えるようになりたい。
誰かに必要とされたり、誰かに愛されることで得られる安心感や満たされ感も必要としているけれど、
自分のことをどうにかこうにか必要としたり、癒したり、愛せるようになっていきたい。
これも少しずつ少しずつ、
行きつ戻りつしながら、あきらめずに、がんばりすぎずに。
もうええやん。そろそろたいへんなことつらいことにお礼を言って、
今この瞬間からの自分に光をみていこうやないの。
という自分に話しかけたはなしでした。
2022年春 開花宣言🌸
冬と春を行ったり来たりしながら、桜は咲くタイミングをちゃんと知っているようです。
行きつ戻りつというのは、わたしも同じで、
調子がよさそうな日と、まぁまぁの日、こりゃアカンの日を行ったり来たりしながら
日々を過ごしています。
そんなもんですよね。
例えば山積みになっている本の整理を(今目の前の状態を眺めながら)
やればいいのはわかってるけれどやらない、やれないっていう日もあれば、
整理整頓してみてすっきり、やってよかった、
という日もあります。
この本のかたづけは、
自分自身へのセルフケアや、こころのケアなどにもいえることかなと思います。
やればいいのはわかってるけど、でもいいのです。
たまにでも「やってみてよかった。気持ちよかった」という体験を
少しずつ少しずつミルフィーユの層を積み重ねるように、
あきらめず、がんばりすぎず、ただやっていく。
その層は、一枚一枚、一層一層、わたしたちの体や心にしみてきて癒してくれてきているはず。
突然何かが180度反転するように変わったり、即効性はないかもしれないけれど、
ある日「あれ?ちょっと前のわたしと変わっている気がする」という時があらわれます。
わたしもたぶん2年前、去年のわたしからはちょこっとくらいは変わっているはず。
そんな自分を日々観察していけるのは、自分自身だけなのですよね。
自分のことを信じれなかたっり、自信がなかったりもするけれど、
それも含めてまるごと今日の自分と今日という日を暮らしていこうと思います。
どこで聞いたのか今思い出せないんだけど
『ひとりひとりが自分のことを
幸せにできたら
世界の何十億の人
みんな幸せになるよね』
担当範囲せまくなると
力みがとれるような気がする。
その幸せっていうのも
壮大な何かでなくて
特別な人になることでもなくて
「これを幸せと認定します」
みたいな定義づけもないような
ガトーショコラにアイスついてるやん♡
みたいな、ちょっとふふん♬って
なるようなことだったりすると
思うんだ☆
さいきん、ほんまに
せめて自分くらいは自分のことを
味方してあげんとな
と思うんです。
甘やかし上等!
無農薬のレモンをもらった☆
ふだん、レモンを買うことがないけれど、もらったことで
「じゃあ、レモンをぎゅっと絞る何かを作ろうではないか!」という気持ちになって、
ここ数日ぎゅっぎゅっとしている。
それだけで、ごはんを作る気力というものがわいてくるのだ。
ありがとう!レモン!
そんなわけで、
材料がひとつやってくると、
「作ろう」という気持ちになり、
「何を作ろうか?」とイメージするようになる。
「想像する」
「創造する」
そのために、心と体をすこやかにいたい
これは、ごはんを作るということだけではなくて、
どの業種の仕事でも、それがこれからは仕事のメインになってくるのではないかなと思うことがあった。
去年、長年共に歩んできたパソコンが、ついに力尽き、新しいパソコンと交代した。
新しいパソコンを使い始めて、気づいたことは、
「わぁ!こんなことが!」と驚くくらい進化はしてないんだけど、
今まではEXCEL講習、WORD講習、検定とかのお勉強をして、手順を知って、できるようになる、
みたいだったことが、可視化されていてボタンひとつでできたり、簡単に見栄え良くできるようになっているのだ。
しかも今の時代、関数とかのやり方忘れてても、Googleさんに聞けばだいたいのことは教えてくれる。
以前は、
「こういう操作のやり方を覚えている」だったけれど、
今は、そしてこれからは、
「それを使って何をするか」が大事になってくるのかもしれないなと思った。
EXCELさんやWORDさんの話でいうと、
こんな機能があるという情報は知っておいたほうがいいが、
それを使って、
●どんな資料を
●誰に向けて
●どういう目的で
etc.
作っていくのか、どう作ったら使いやすくて、見やすくて、使う人の役に立つのか、
という想像力を働かせることが、今以上に必要になってくるのかもしれない。
そして、その想像力を働かせるために、そのツールを使うための勉強や、
仕事によっては資格も必要になってくるが、
想像力を働かせる人の、こころとからだが程よくすこやかであること、
カッスカスの状態でないことが大事になってくるんじゃないかなと思う。
ほかの仕事でも、ほかのツールでも、ヨガの仕事でも、
そうなってくるのかもしれないなと思っている。
ツールに使われるんではなくて、
それを使って「何を想像し、何を創造していくのか」
今、そんなことを考えて、棚卸ししているところです。
タイトルと写真は全く関係ないけど、あんバターが好きです☆
タイトルのはなし。
お風呂に入っているときや、寝る前に、「おおっそうか」と
思いつくことが多くて、
最近「そうか☆」と思ったことを書こうと思う。
自分が今何歳だということを普段意識してないんだけど、
例えば「今が20代だったら、今現在より選択肢があったのかな」とか思ったりして、
「なんでこの日が誕生日で、今この年なんやろうなぁ」とぼんやり考えてたときに、
生まれてから、いろいろな体験をして、そのときその瞬間のわたしができていて、
そのときのわたしで時代や出会いや仕事をしていくために
生まれてくる日は、あの日だったのかもなぁと思ったのでした。
うまくいえないけど。
たとえば、
今の年齢で2020年を迎えたり、
人と出会うタイミングも、その人もわたしもお互いそれぞれの年齢(年が近いときもあれば、離れているときもある)で
会うようになっていたり、
仕事もあのタイミングでやめたり、はじめたりするんだったんだろうなぁ。
そんなわけで、年齢というのは、何かをあきらめたり、はくをつけるものでもなく、
今の瞬間を今のわたしで体験するタイミングなのかもしれないなと思ったのでした。
ただ気を付けたいなと思っているのは、
年を重ねて、いろいろな経験が増えてくると、
なんでも知っているような気になってきたり、
「こういうものだ」と考えが固まってきたりすることもあるので、
いつでも「新しい新鮮な気持ちで、いろいろな興味ある話を
目をきらきらさせ、鼻をふくらませて聞く」姿勢でいたいなと思っている。
ちくわと散歩して、夕日を見た。
それだけで「今日はええ日やったなぁ」と思えた。
ちくわはパグという種類のイッヌだ。
だけどちくわはおそらく自分のことをパグという犬種だとは思っていない。
もやはイッヌとさえ思っていない。
もちろん、食べてはいけないものがあったり、健康のことで気にかけることは
あるので、それは気を付けている。
人は、何かにつけてカテゴライズする。
それが悪いことだということではない。
体質、気質、傾向、趣向というのはもちろんあるし、
それが自分自身の体とこころの養生の目安にもなったりするので、
自分自身を知っていく、掘り下げていくということは、わたしも大好きだ。
ただそれを人と人を分離するものであったり、
自分のことをあきらめる原因にしたり、
どこかのカテゴリーに、グループに入らねば!みたいな自分への圧力に
なったりしたくはないなぁと思うのだ。
わたしの職種にしても、「ヨガインストラクター」のカテゴリーに入れてしまうと、
その中で自分自身に「せねばならぬ」のようなものを課してしまいそうで、
「どういう種類のヨガ?」「歴は?」「どのくらい詳しく理解できているのか」
「どのくらいのレベルなのか」みたいな、
チェック表が出てきそうだなと思うのだ。
つまらない
ぜんぶまるめて、まとめて、
響くもの、おもしろいこと、
やっちまったな☆と笑ってしまうこと、
わたし自身が、
あなた自身が、
今を生きるいのちのあらわれとなればいいなと思う。
ヤラセ感満載のちくわと梅の写真。
人は見たいように、人のことを、世界を見ています。
例えば、わたしのことも
ある人は、
いい人だと思ってくれているかもしれない。
ひとりが好き、人付き合いの悪い、めんどくさい人と思っているかもしれない。
性格キツイと思っているかもしれない。
暗い、ちょっとやっかいと思っているかもしれない。
嫌いと思っている人もいるであろう。
どれも私かもしれないし、どれも私ではないかもしれない。
良くない方に思っている人からしたら、ブログで書いてることや、どこかで話していることを、
性格キツイし、めんどくさいし、重いのに、いい人そうなことを書いてる
やさしそうなフリしてる、と思っているかもしれません。
逆に、いい方に思ってくれている人から見ると、
「あんな人だと思わなかった」というようなことを言ってたり、やってたりすることもあると思います。
まいにち、規則正しく健康的で暮らしているなんていう誤解をたまに受けますが、
たまに夜更かししたり、お酒飲んだり、そのほかの趣味趣向にわいわいやっていたりもするのです。
できるならば、やさしい、いい人でいたいものだとは思いますが、
それなりに人には好かれていたいと思ったりしていますが、
誰かの「こう思っているであろう」にあわせて生きていかなくてもいいのですよねー。
しんどいですよねー。
さきほども書きましたが、
性格キツイと思われているのに、こんないい人そうなこと書いて何て思われるだろう、
こんなことやりたいと思っていても、「おまえごときが」と思われたら嫌だな、
そんな風に「誰か」の世界で見えている「わたし」のことを気にしていることが、
自分の行動や、言葉や、いろんなことにブロックをかけているのだろうなと思います。
思っているけど、やってしまうのです!わーん(今のわたし)
人は見たいように見ているから、
わたしも見たいように自分のことを見ればいいのにねっ!と思っているところです。